色即是空~死に方

今年もまた盆が近づいてきましたねぇ。

身近で色々な方が鬼籍に入っていきます。

「もう二度と会えないんだなぁ」

「沁み滲み・浸み凍み」と、そう感じてしまいます。

死はとても不思議なものです。
やがて訪れる自分の死に対して覚悟ができている様でもあり、そんなものは断固として受け入れられないようでもあり。
「どっちなんでぇ」
そんな訳の分からぬものの様な気が致します。

どつちみち自分の死は必ず来るもの。
避けようがありません。

それでいながら人はなかなか己の死を直視しようとしないですな。
何か自分とは関係がないものとして、日常から遠ざけて生きるのが普通です。

まぁこれは当たり前でしょう。
「自分の死」なんて重たいもんを背負っていちゃ、クソ忙しい毎日を恙なく暮らす邪魔にしかならないですから。

でもね、どうせ避けられないもの。
それならば時々、自分の死に様を徹底して考えておくのも必要な事ではないでしょうか。

いざ死ぬ段になってパニックになったり、さらには周囲の者、もしくはその他の公的な諸々に迷惑をかけたりするのだけは避けたいものですよ。それはすべきではないでしょう。

 

人間というのはね、他人の死は重く感じない。
でありながら自分の死は直視できないくらい重い。
これはもう生物的特性です。
徳の高い聖職者でもない限り、他者よりも己の身が大切でしょう。
その事は歴史がね、否定不可能な程如実に示しております。

歴史といえば、日本には「切腹」といのうがありましたね。
これは非常に奇異な死と言えましょう。
自殺でも他殺でもないし、刑死でも殉死でもない。
刑罰でありながら、名誉ともされる。
「家」のために誉を残し死ぬわけです。

しかし現代的思考で考えてみますと、
本人は死にたくないのに、家長の意向で死に追い込まれる。
いくら名誉ある死とはいえ、理不尽すぎますな。

これを当たり前として受け止めていた時代。その事実は、現代日本とは精神構造そのものがまるで異なる世界で昔の日本人が暮らしていた事の証明でもありましょう。

武家社会では「家」がすべてに優先していたという事です。
「主」のために腹を切り命を絶つ現代人は絶対におりません。
「主」というのが当人にとって何にあたるかで例外はありましょうが。

蛸などは自分の足(手)が損傷しても再生します。
その蛸が自分の足を食べてしまう「自食」はよく知られています。
俗に「タコ配」と言いますな。自転車操業の次段階。

しかしあれは自己防衛(自腹を満たす)のためにやる行為ではなく、神経を損なった為に起きる一種の精神崩壊です。自食で損なった部分はもはや再生せず、多くの場合そのまま死を迎えます。

 

死に臨んで人間が考える事は概ね二つ。

「死後の安寧」か「この世に名を残す」か。

死の向こう側は誰にも分からない。
戻って来る者がいないので分かりようがないのです。
想像を巡らせるしかなく、古来より人はそうして来ました。
闇ですな。

闇は我々人間にとって根源的な恐怖。
その闇を払うために想像力を働かせる。
そこらあたりから宗教が発達したのでしょう。
死後の安楽を約束してくれる教えに人は弱い。

しかしはっきり言って「死後」を考えるのは無意味なこと。
個々人で思いたい様に思うしかないでしょう。
何かがあると考えたい人はそうすればよいし、虚無で何もないと思うならそれでよい。それで自分の死に際して安息が得れるのなら良いのです。
だがそれは「生きてる間」のことであり、死後の世界とは関係ない。

どうせ絶対に行けるのです。
ならば行く前からあれこれ想像する必要はありません。
行って見ればすべて分かるからですね。
そこが「世界」であろうと「虚空」であろうと、行けば分かる事。
生きてる間にそんなものに頭を悩ませるのは時間の無駄。

重要なのは「死に方」になるんじゃないでしょうか。
理想的なのは睡眠中に死ぬ事ですな。
あるいは考える暇すらない即死です。
最悪なのは自分の死に恐怖しながら死ぬ事でしょう。

つまり精神活動が弱い時の臨終が望ましく、逆に脳がクリアで活発な時の臨終はおそらく悲惨なものになるでしょう。
「どんな死でも受け入れる」は実際から乖離した言葉。
人間は最後まで死を受け入れる事はできんでしょうな。
それが生あるものの本能だからです。

 

色即是空なあの世とこの世

人は歴史に名を刻むほどの偉人でなくても記念碑を残したいもの。
最低でも「墓」くらいは生きた証として残したい。
それがまぁ一般的でしょうか。

おいらの考え方は少々違います。

どんなものでもいずれ必ず風化します。
時間的スケールの違いはあれど、それは絶対です。
墓とて永遠に存在できるものではありません。
「永遠」という言葉自体がナンセンスです。
時間の概念を無視するなら宇宙すらいつか終わって消える。

「あの世」と「この世」の間隙を抜けられないのならば、この世に「形」を残す事になんの意味がありましょうか。

生まれて生きた以上、軌跡は残ります。
だがそれは消えてなくなるし、歴史のページは新しいものが次々に重なり、古いものは朽ちていく。

巨視的に見れば形のあるものは全て無なのです。

古いものは消えていく。
寂しい事ですが、人の世界はそれでいいんです。

なのでおいらは「空葬」とか「海葬」が望みです。
自分で参る事の出来ない墓に興味はありません。

生きている者は「発見」を続け、この世界を作っていく。
必要以上に死者を思い出すべきではない。

墓碑を必要としているのは死者よりも生きている縁者です。
その気持は分かるが、やはり死んでいく者には不要。

とはいえ、もしもこの土地で臨終を迎えてしまえば、その望みは十中八九無視されてしまうでしょうけどね。それが柵(しがらみ)って奴です。

 

死の事を書くのは難しいですなぁ。
まあ数千年議論され続け、考えつくされても答えの無い難問ですんで当たり前ちゃ当たり前なんですが。

結局は「その時になってみなきゃ分からない」
なので、
「そんな事を考えてるより生きるのに忙しい」
ってことになるんでしょうかね。

しかしね、
「さあ、自分の死はどんな様で、どう迎えるかな」
それを突っ込んで考えてみるのも悪くはないですよ。

なぜならそれを熟考してみると、
自分自身の本当の姿がはっきりと見えてくるからです。
人生が何か分かってくるのですよ。

ただしまだ人生を知らぬ若者が死について考えるのは早い。
それこそ「生きるのに忙しくそんな事考えるヒマなどない」が正しいですよ。

2010年07月10日 魚山人

☆——-この記事へのコメント——-☆

こんにちは

何かコメントしようとしたものの
言葉にすると陳腐なものに思えて
書いちゃー消し
書いちゃー消し

死ぬときにでさえ美しさを感じさせた俺の祖母は
本当に粋な人間だったのでしょう。

俺はまだ死にたくねえし
やらないかんことが多い。

水・木と東京に行きまして
少し怖さも感じましたが逃げるわけにもいきません。
なんにしろ、人生、揉まれてみます。

Posted by 水匠 at 2010年07月10日 14:51

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水匠さん。

「怖さ」なんぞ感じる必要はありません。
本来の江戸っ子気質とはね、あなたのような人だから。

「険」の立った今の東京は「別の何か」なんですよ。
「オトトイキヤガレ、トウヘンボクのバカヤロウ!」
そんなもんだし、それで結構。

 

Posted by 魚山人 at 2010年07月11日 00:07
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お疲れです。

【死】

俺の爺チャンと従姉妹ゎ
土葬でした。

生身の屍を棺桶ごと土に埋めました。

羨ましい次第

数日後 凹むんすよ 埋葬した場所が…
天に召された訳です。

俺ゎ墓なんて下らネェモンゎ
要りません。

できれば俺の死後ゎ
俺の存在を早く忘れてもらい 新たな気持ちでスタートしてもらいモンすよ

色即是空

坊主にロクなヤツ居ネェ
とくに…浄土真宗な


他の宗派も変わりネェし
神社も同じだし(笑)

俺ゎまだ死ぬわけにいかないのよ だって大切な長男君との会話とかあるし


次男坊とバッチの長女ゎほっといても大丈夫だろがね

【死】
他人の死が怖いね 俺ゎ
自分の死ゎさほど怖くネェ

何度か死のうと考えたし
1番の『楽』ゎ 死だろから

Posted by 鯔次郎† at 2010年07月11日 01:59
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それはまだまだ鯔さんが「若い」てっこった。
あと15年、いやさあと10年経てからこの記事をもう1度読んでみ。

坊主は坊主、仏教は哲学。ソウソウ(笑)ってね。

お疲れさま、鯔さん。

Posted by 魚山人 at 2010年07月11日 02:18
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魚山人さん
はじめまして!
私は魚釣りが好きで魚を捌くようになり、それがきっかけで包丁に興味を持ちだし研ぎ方を調べているうちにこのホームページに辿りつき、魚山人さんの心配りの大きさ、広さに板前って凄いんだなと感動しました!

お客様を大切にされている事をつくづく感じました!

様々な事について書かれている事を興味深く読んでいるうちに、死についてまで書かれていたので思わすコメントしてしまいました。
私の勝手な思いなんですが、思う事をコメントさせて頂きますね(^-^)

死・・・
その先とか本当に考えても無駄な事だなと思います。
自分がどんな死に方するかわかりませんが、死ぬ直前にそれまでの生き方を後悔しない生き方がしたいものです
気持ちよくすがすかしく死をむかえたいなと思います!

Posted by ナベちゃん at 2015年05月08日 23:21

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こんにちは。
コメントをありがとうございます。

死って奴は、30代まではそれこそ「他人事」なんですが、40代に入り50に近づくにつれ、周囲の人間がバタバタと亡くなっていくのを目撃するようになり、やっと「身近なものである」と分るようになります。

確かに死は考えても意味のないものなんですけども、現代人はもう少し死について深く考察する必要があるという気もします。

ヒトの命がいかに儚いかを知ることにより、「強欲」やら「独占」などの無意味さが分るからですよ。
欲張りの果てに世界を征服したみたところで、どうせいつか死ぬし、あの世には何も持っていけないからです。

Posted by 魚山人 at 2015年05月09日 09:42
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魚山人さん
返事ありがとうございます!

魚山人さんと同じ気持ちというか考えかたというか、似た事を感じてるように思います。

金も名誉も持って行けない死後の世界を目前にして、人は何を思うのでしょうか?

家族の為にも、また縁合って共に生きた仲間の為にも、儚い物を追い求める生き方では後悔する事が有りそうに思います。

じゃあ、どう生きれば後悔しないのか?

これが、難しい!
難しいと言うのは、私が納得できる生き方を貫くことが難しいのですが、(-。-;

私はまだ41歳です
残りの人生、1日いちにちを後悔しないよに全力で楽しんで行きたいものです(笑)

ぜひ一度魚山人さんの料理を食べたいです(≧∇≦)

Posted by ナベちゃん at 2015年05月09日 21:59
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コメント

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